“きょうだい”

最近発達障害関連のサイトを徘徊しまくっている。そうすると、いかに多くの人たちが発達障害で悩んでいるかがわかる。そして、多くの人たちが何らかの自助団体に属している。検索にも自助団体が多くひっかかる。
その中で「え?!」と目を見張ったものがあった。きょうだいの会というものである。「きょうだい」・・・障害者の兄姉弟妹をもつ人のこと、とある。私は驚いた。障害者の親の自助団体があるのは知っていたし、理解できた。でも、まさか障害者のきょうだいの自助団体があるとは全く想像していなかった。きょうだいが集まる必要性を、自分自身も“きょうだい”でありながら感じていなかった。驚くのと同時に、自分も世間からみたら「障害者のきょうだい」という風に見られカテゴライズされるの?とびくっとした。あくまで私は彼ら障害者とは違うんだ、と強調したいわけじゃない。ただ世間の目を普通の人以上に気にしなければならないのが障害者とその家族なので、この気持ちはわかる人にはわかって頂けると思う。しかし、HPの中を覗いてみるとそういうことではなかった。障害者のきょうだいが、きょうだい故にかかえる悩みを分かち合う為に集まっていたのだ。
そんなきょうだいとしての悩み・経験を、とても丁寧に語っている男性のHPを見つけた。その中のコラム「きょうだいどうしのために」を読んだ時、私がこれまできょうだいとして感じてきたことのほとんどを、この方がうまく代弁してくださっているように思えて、思わずぐっときてしまった。混沌とした気持ちも、活字を読むことによって、少し整理された気がした。
その方は、自分のHPの場をきょうだいたちの悩みや愚痴を打ち明ける場として解放されている。私は今まで自分の悩みを友人にきちんと話したことはない。会話の中でお互いの兄弟の話になる時、私はいつも困った。そのまま正直に言えばいいじゃないか、隠すなんてそれこそ差別だ。そう思うわれる方もいるかもしれない。私もそう思ってそれとなく話したこともある。しかし、こういう話は例え親しい友人であっても言わないほうがいいと、私の場合は最終的に判断した。親しい友人にはどうしても「理解してほしい」「この子ならわかってくれるだろう」と期待してしまう。そして決まって「言わなきゃ良かった」と後悔する。こういうことはやはり当事者でないとわからない。それはもう、人格の問題とは関係無しに、ただ経験の問題だ。そんなこんなで、自分の中にはぐっと飲みこんだ言葉が積もり積もっていく。それを吐き出す場所はないし、そういうものかとも思っていた。
この気持ちを吐き出せる場所があることはわかったけれど、実際そうするかどうかはわからない。私のプライドが邪魔しているのかもしれないが・・・それもよくわからない。昨日ある掲示板をみていたら、ある障害者の方がこんなことを書き込んでいた。

もし目の前に、自分のこれまでの状況全てを知る人が現れて、その人に優しい言葉をかけられたら、自分は大泣きしてしまうだろう。

皆一緒なんだ。これ、私がよく想像する光景だ。全てを理解して守ってくれる人に、今までの悩みや苦労を全て吐き出して、大泣きしたい。いつもそう思っています。
一番辛いのはBOOだね。でも、ここでだけ弱音を吐くの許してね。

きょうだいは親にはなれない…けれど―ともに生きる Part 2

きょうだいは親にはなれない…けれど―ともに生きる Part 2

この本近々読みたいと思っています。